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第4回高田渡メモリアルコンサート

 

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第3回高田渡メモリアルコンサート

 

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第2回高田渡メモリアルコンサート

 

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第1回高田渡メモリアルコンサート

 

2010年10月16・17日に岐阜県北方町の生涯学習センターきらりホールで行われました。

16日の『前夜祭』では、アマチュアミュージシャン4組が出演し高田渡さんの歌を演奏、 その後ドキュメンタリー映画「タカダワタル的ゼロ」も上映されました!

17日の『生誕祭』では、第1部で高田渡さんや高田家にゆかりの方々が「高田家の軌跡」を語り、 第2部で高田渡さんの盟友の加川良さん、木村充揮さん、有山じゅんじさんによるコンサートが 行われました。

北方町近隣の方だけでなく、高知・山梨など遠方からもコンサートに来ていただきスタッフも 改めて高田渡さんの衰えぬ人気の高さを思い知らされました。 多くの方に来場いただき有難うございました。

町長のはなし

実は 私は高田渡という方をよく承知しておりませんでした。 少し古い話になりますけれども、私が初めて北方の議会にお世話になったのが昭和54年でございました。町の中に個人の事務所を持っていた時に 新町で風呂桶屋さんをしている方から「昔、北方には立派な共産党の議員さんがいらっしゃった。高田(豊)さんという議員さんだよ。」とお聞きしたこ とがありましたが、その時にはそれで終わっていました。
その後何年かして アルテックの前社長さんに その話をしたところ「私は、若いころリヤカーで(高 田さんの)選挙運動を手伝った。」という話をお聞きしたことがありました。
そして、先日そろばん教室をしておられる寺町先生から1冊の本をいただき、それが『高田渡と父・豊の「生活の柄」』でした。先生にどういう関係か尋ねたところ「私は、このお父さんに仲人をしてもら いました。」とおっしゃいました。そこでその本を一気に読ませていただきました。
私は音痴で音楽にはあまり関心がありませんが、この本ではむしろ父・豊さんの生き方がすばらしい。 素晴らしいと思う一方で、人は意地の悪いもので あの貧乏暮らしがとても魅力的。
こういう生き方ができる人も素晴らしい人だなあと思いながら、苦しい生活の中から渡さんやご兄弟がその後立派に社会 にデビューしておられるということで、非常に感服したところです。 私たちの町は、なかなか全国版で有名人がでることの少ない街ですが渡さんという全国に名を馳せた歌手がでていらっしゃるということを知り、町の名誉であるということで今日の日を楽しみに待っていたしだいです。今日は渡さんを偲びながらコンサートを楽しんでいっていただきたいと思います。

 

第1部 高田家の軌跡
登壇者 本間健彦:『高田渡と父・豊の「生活の柄」』著者
ノンフィクションライター、タウンジャーナリスト 
エディタースタジオ「街から舎」主宰
高田 驍(たけし):渡の兄
高田 烈(いさお):渡の兄
寺町 戸予子:北方町在住、北方保育園創設のころ保母として勤務

司会 安藤浩孝

 

司会:フォークの吟遊詩人と謳われた高田渡さん。類まれな詩精神と反骨の生き方の源流が、この北方町でみられるかどうか分かりませんが、今日は東京から『高田渡と父・豊の「生活の柄」』の著者本間健彦 さんをお迎えしております。

まず、高田渡さんの本『高田渡と父・豊の「生活の柄」』を書かれた動機は?―――――――――

本間:渡さんは、69年デビューで「自衛隊に入ろう」で世にでてきたわけです。フォークソングというのは、 反戦ソングあるいはプロテストソングとしてでてきたのですが、渡さんもそのようなかたちででてきたんですね。
そのようなかたちででてきたんですけれども、はたして渡の歌は反戦ソングといえるのだろうか。彼は、 非常にシニカルなコミック性のある歌を歌っている。この人はフォークソング歌手だが、どこか違う なあと昔から疑問にありまして、いつか渡さんの話を聞いてみたいと思っていました。東京のミニコミ 誌でインタビューを申し込んでいましたが突然亡くなってしまったんですね。そこで彼は亡くなられた んですけれどもなんとか渡さんのことを調べてみようということで2年半かけてミニコミ誌に連載したものをまとめてみたということです。

司会:渡さんはたいへん気になる存在だったということですね。
私たちも 先生のこの本を読ませていただいて それで触発されてこのような企画を立てさせていだ だいたというのも事実なんですよ。

次に、この本は15章からなるんですが3分の2は、父・豊さんのことについて書かれています。
はじめは高田豊さんの本じゃないかと思うんですが、最後まで読んでみるとやっぱり渡さんの本であったと気づくんですね。このあたりについてうかがいます。――――――――

本間:渡さんは「バーボンストリート・ブルース」という自伝を書いていますが、私が書こうと思ったのは 彼の自伝ではなくて彼がどういう存在だったのか、どういう歌い手だったのかという興味から入ってますので そのバックボーンといいますかルーツに非常に興味があったんです。
彼の自伝を読んでいた時にお父さんが「貧乏詩人」であったと書かれていますが、彼はすごくそのお父さんを好きだった。
では一体なんでそんなにお父さんが好きだったんだろう?普通であれば 貧乏なお父さんであれば息子としては疎んじたりするんでしょうけど、彼はお父さんを愛していた。尊敬していた。その理由は何なのだろうと調べていくと、高田渡というのはお父さんの存在なくしては存在し得なかったんではないかと思うくらい影響を受けている。そういうことでこのような構成になってしまったということです。
調べてみると、豊さんの人生は本当にいろんなことが起こる。渡さん以上にドラマチックな生涯を送った人です。

司会:父・豊さんは渡さんにとってどんな父親像だったのでしょうか?――――――――――

本間:渡さんは四人兄弟の末っ子なんです。8歳のとき母が亡くなられて、18歳で父が亡くなられている。そういうかたちで渡さんは末っ子ということでお父さんに非常に可愛がられて育っているということがあって(父親の代で私財をなくし)同世代では考えられないような非常に貧しい生活を体験しているんだけれども、深川時代とかですね、それを恥ずかしいとは思わず むしろ逆に自分の原点であると言いきっている。それはどういうことかというと、彼はお父さんの生き方や姿勢に心から敬愛の念を抱いていたのではないかと思われますね。

司会:父親は誠実で純粋で曲がらないスタイルを最期まで貫くんですが、彼はそういうのを手本にしたんでしょうね。

それでは次に 長男の驍さん、三男の烈さん、そして北方役場の前でそろばん教室をやっておいでになります寺町戸予子さんの3人をお迎えします。

まず初めに、驍さんにお話をうかがいますが、高田さんご兄弟がお生まれになったのは北方俵町ですが、その頃の俵町界隈の風景など思い出されることはございますか?―――――――

驍 :いっぱいあるんですが、一番強く残っているのが 当時家の前に傘屋がありまして、和傘のですね、ご主人と父が幼なじみで同級生だったんです。その傘屋さんの職人さんが毎日ひごに和紙をのりで貼って渋を塗ったものを乳母車に乗せて傘を干す場所が近くにあって そこにもって行き干すんです。原っぱに穴があいていて まだ濡れている傘を干すんです。そこで遊ぶと傘が広げてあるので隠れ場所になるので子供たちにはとっても楽しいんですけど、傘屋さんにとってはまだ作りかけの商品がいつ壊される
かわからないのでしょっちゅう怒られていたんですけど。しかし雨が降ってくると 子供たちは率先して傘をかたずけてお知らせしていましたね。だから自分は 同級生のほとんどが洋傘を持つようになっても最後まで番傘で学校に通いました。大きくて旅館の傘みたいに真ん中に「高田驍」なんて書いた傘で小学校5、6年生まで最後まで持ってましたね。ほんとは嫌でしたけど。

司会:渡さんのLPレコード「汽車が田舎を通るそのとき」のジャケットのイラストは驍さんが描かれたんですが、その経緯を聞かせてください。―――――――――

驍 :自分はすでに会社勤めをしていたが、ある日渡が突然昼休みに来て 「納期は1週間で、こんな感じの 絵で、印刷の色数はこうで、こんなの描いといて」と言って本人はどこかへ行っちゃて(笑)。
レコード会社から報酬はもらったかどうか記憶にないです。

司会:歌詞の中に「ぼくは八っつという切符を買って、はたちという駅まで、そしていま、はたちという切符を買ったところ・・・」という詞があります。これは渡さんが8歳で北方を出ていかざるを得ない状況があったんですよね、東京に行かれるという。だからこの詞はものすごく北方を意識した詞ですね。
そのことについては いかがですか?―――――――――

驍 :渡は故郷はどこかと聞かれると、東京の深川と岐阜県だとよく言いますよね。だから、どちらも同じくらいの比重だったと思います。
母親が亡くなったのも8歳だったから この年齢というのはとても重いものだったでしょう。

司会:「系図」のジャケットにも 先祖の写真をつかっておられますね。人一倍高田家を愛しておられたんじゃないですか?

驍 :そうだと思います。

司会:烈さん、渡さんにそっくりですが皆さんに言われるんではないですか?―――――――――

烈 :渡が生きているときは、途中で間違えられることがありました。電話をかけるとよく渡に間違えられました。

司会:声まで!そういえば そうですね。口元も似ていらっしゃいます。
小学校のときは 烈さんが4年生で渡さんが1年生でしたか?そのときのことを聞かせてください。

烈 :渡が小学校に入ったときは、自分が4年生で渡が1年生でした。渡は小学校に入っても幼稚園と同じ感覚でいて、授業が始まっても円鏡寺の池で魚を釣って遊んでいました。そこで担任が私のことを呼び出して渡を連れてきてくれと頼まれたことがあったり。
また、当時木造の校舎で床が高かったんですが、縁の下に渡が入ってしまう。先生が呼ぶと奥へ奥へ入っていってしまうので、私に連れて戻ってきてくれと言われるのはしょっちゅうでした。
1年生で早く授業が終わると、私の教室に入ってきて「帰ろうよ。」と言って呼びに来る。4年生はまだ授業をやっているが それが毎日続くので 初めは先生が「後ろで待っていて。」と後ろに立たせていたが、何度も続いたので最後の頃には教室の後ろのほうに渡専用の机といすが用意されて、毎日渡がそこへやってきて 何をしていたかはわからないが そこで待っていて一緒に帰るようになりました。
渡は非常にかわいい子で、当時他の子どもは丸坊主だったが 渡は北方には珍しく髪をのばしていて可愛い顔をしていたし、皆に可愛がられてて自分も渡を疎ましいと思ったことはありませんでした。

司会:夏休みに川に行った記憶は?――――――――――

烈 :川でなく円鏡寺のプールに行きました。円鏡寺のプールは5分くらい入ると 顔が紫色になるくらい冷たい水でしたが、夏休みは毎日そこに泳ぎにいきました。渡は小さいので連れていくのがイヤで、よくけんかしたり、拒否して親にあまり連れて行かないとプールに行かせてもらえないということもあった。

司会:その夏休みに何か事件があったのですか?―――――――――

烈 :プールに行くのに渡が追っかけてくるから、急にガラス戸をしめたわけですが、その時渡がガラスを突き抜けて胸のあたりにガラスが突き刺さってしまって、その年はずっとひと夏プールに行かせてもらえませんでした。

司会:歳が近いのでよく遊ばれたのでは?―――――――――

烈 :歳が近いので 死ぬまでしょっちゅう電話がかかってきて、朝10時くらいから1時間くらいはかかってきました。何を話していたかは憶えていませんが、他愛もないことですね。

司会:次に寺町先生にうかがいたいと思いますが、そろばん学校はいつごろからやっておられますか?――

寺町:昭和23年からやっています。私は、23年に北方へまいりました。そのころちょうど高田(豊)さんたちが 北方に保育園を設立しようとなさっていて 保母さんを探してみえたので 私が北方へ来たところだったのですが 採用していただきました。

司会:それでは、保母さんとそろばんの両方をやっておられたのですか?―――――――

寺町:(当時)本巣郡には保育園というものが全然ありませんでしたが、高田さんのおかげでその年4月から始まったんです。ところが、保育園と申しましても校舎はありません。遊ぶところもありませんでした。
円鏡寺の鐘つき堂の前に広場がありました(ので、そこでやっていました)。町役場の横に公民館が建っていましたが、その公民館も2階建てで 壊れかけたようなところで入れませんでした。
高田さんはとても頭がよく すぐに実行にうつす方でしたので、皆のことを考えて 子供たちのことを考えて、何もないけれどやろうということで始められました。
(保母は)一人学校の先生がいらっしゃって あとは戦死者の奥様と子供をかかえた方でした。(全員3人も4人も子供をかかえた女性ばかりでした。)そして、私は独身でしたが 伯母を頼って北方にきました。北方には縁はありませんでしたが、すぐに保母として採用していただきました。
リヤカーにオルガンを乗せて 広場に行っていました。そのうち 教職経験者の方が盲腸で入院され 経験のない者ばかりになってしまいました。オルガンを弾いたこともないので「ドミソドミソ・・」で はなく「ど嘘ど嘘・・」という感じでした。
雨降りはお休みです。校舎もなく 青空でしたから。そういうときは、自分たちはいろいろなところに見学に行って勉強しました。半年ほどしてから 北方小学校の北校舎をあけてもらい そこに入りました。高田さんは初代園長になられて、2年くらいやっておられました。
渡さんは その頃誕生なさって「お母さん、お母さん・・」と言ってついてこられていました。烈さんがちょうど保育園に入られる年頃でした。その同じ年頃のお父さん、お母さん方が一生懸命骨おられていまの北方の保育園があるということです。今は(町内に4園あり)たくさん増えて喜んでおります。
本当に 高田(豊)さんのおかげと感謝しております。

司会:本間先生、渡さんに「コーヒーブルース」という歌がありますが その中に登場する女性は実在の方でしょうか?―――――――――

本間:これは取材して聞いたのですが、彼が関西・京都に行ったのはURCに認められてですが、その前に小さいコンサートに行った時にファンの女性がいて その彼女に会いたくてイノダコーヒーに通っていたんですね。でも彼女には婚約者がいました。

司会:最初の奥さんと思っていましたが、違うのですね?

本間:その後 最初の奥さんといっしょになられるのですが その方を歌ったのではありません。

司会:最後にお兄様にうかがいますが 父豊さんはもしかしたら北方の町長になられていたかもしれませんが渡さんはどうでしょうか、ずっと北方にいたとしたら役人になるタイプだったでしょうか?―――――

驍・烈:渡は役人になるタイプではありませんね。何にということはわかりませんが、役人ではありません。
もしなっても 3日でクビですよ!

司会:ありがとうございました。今日は、渡さんにゆかりの方 そしてご兄弟に来ていただきお話をうかがって、高田渡さんのルーツあるいは源流といったものを少しでも垣間見られ 私どもも企画させていただいた甲斐もあったと思います。

詩「火吹竹」の紹介

第1部の最後に、1篇の詩をご紹介したいと思います。
高田渡さんは、生涯に1曲だけ、父豊さんの詩に曲をつけ唄っています。タイトルは「火吹竹」。
本間先生の著書によると、父豊さんは、20歳のころ、恋人と別れた後、しばらく大学にも東京にももどらず北方の家で過ごしたことがありました。北方の家で詩を書いたり、読書をして過ごし、夕刻になると柳ヶ瀬に出かけてゆく。そんな生活をしているときに書かれた詩の中のひとつが「火吹竹」です。
豊さんが、この北方の町で書いた「火吹竹」を高田渡さんが唄う。
この曲は、北方と豊さんと渡さんをつなぐ曲のように思えます。

火吹竹

毎晩夜通し起きていて
僕は
何んにもしてやしないのです
この間の晩火吹竹を作った
ブー ブー ブー
火鉢一杯に
真赤な炭が盛れ上ってくる

炭はまた直ぐたってしまいます
ブー ブー
火吹竹の音を聞いていると
外は雪のように静かです
ほんとうに
夜通し、僕は
何んにもしてやしないのです

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